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孤独であること

2012/01/05 14:22

 

 私には友達もいて、連れ合いもいて、子どももいる。いろいろな問題がないわけではない。でも一人ではない。それでも急に寂しくなることがある。

 

 一人で生きている人が多いけれど、その寂しさはどのようなものであろうか。そんな気が強く感じる。

 

 男はいつも自分はなんのために生きているのであろうかと考えてしまう。そんな余計なことを考えないで、とりあえず、生きていけばよいのであろうが、なかなか上手くはいかない。それが人生かなと思うこのごろだ。

 

 放送大学院の授業を受けているので、学生証がある。学生証を使って、昼食を安く食べたりできる。ラーメン100円引きなんかが嬉しい。

 

 映画館で学割があったので、

「この学生証使えますか?」と聞いたら、

「学生証は使えるけれど、学割は1800円が1500円。シニア割引だと1000円になる。そちらがきっとお得です。」と言われた。そうかシニアか???

 シニアを調べてみたら、60歳以上の定年退職者を一般的にはいうとのこと。どれにも合致するが、なにかちょっと寂しい。これが寂しい原因かな?

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権力と地位

2011/12/06 08:54

 

 権力と地位を考えてみると、世の中を動かすためには、1人の力では何もできないことが多い。大きな石があったとする。その石は10トンだとする。この石を一人で別の場所に動かすことは困難であろう。けれど100人で助け合って仕事をすれば、1人当たり100キログラム相当になるから、動かすことができる。

 個人でできなくても集団でならできる。しかしながら、それぞれが個々に勝手にやったとしても上手くはいかない。そこで役割分担が出てきて、全体を眺めながら、指揮をする人・それをみんなに伝える人・力を出して引っ張る人などとなる。全体指揮が1人・伝える役が5人後の94人が引っ張る役だとする。このときに「10トンの石を動かす」ことが目的である。それぞれが適材適所で働いた。将来のことも考えると役割分担は適時交代して、いろいろな人が指揮をしたり、伝えたりする役割をこなし、いろいろな場所で重たい石を動かすことができるようになることがよいであろう。

 

 現実はそうはならない。トップの地位と権力を握った人がそれに酔いしれて離そうとしなくなるのだ。権力に伴い、必要な倉庫の鍵などを地位ある人が独占するようになる。身の回りでは鍵の独占が地位を保証していることが多い。権力と地位を独占したい人は鍵の数を少なくして、自分だけが持とうとする。これは鍵だけではなくて現代では情報も一緒である。情報・鍵・命令系統・機械器具等の独占が権力維持につながる。本来10トンの石を動かし、みんなが暮らしやすい環境を作ることが目的だったのに、その目的はどこかに追いやられ、権力維持が目的になる。

 

 ユングの言う「権力は腐敗する」との意味はそこにあるのではないかと考える。森村誠一さんが「権力はトイレのようなもの。トイレは必要なものだが、他人が独占すると周りには不満が高まり、悪臭を放っていく」との趣旨の話をされていたが、本当にそのとおりである。

 

 権力や地位の独占を防ぐために多選禁止というのが民主主義社会の基本である。一人の人間が多年にわたって権力を握ると悪臭を放つからである。私は多選禁止とともに権力の分散が必要であると考えている。三権分立ではなくて、トップを3人にするいわゆるトロイカ方式である。トロイカ方式というと日本的でないが、日本的に言えば江戸時代の藩の体制である。江戸の中期以降は藩は藩主だけが実権を持っていたのではないみたいだ。概ね藩主と2人の家老が決定権があり、2人の家老が決定すれば、藩主だとしてもひっくり返すことは難しいとの体制である。同様に会長などを3人にして、3人の合議で決定すれば独占を防ぐことができるようになる。また、対外的にトップとなるであろう会長兼代表みたいな仕事も3人で分担できる。鍵と情報を3人が文字通り共有することになる。このことで、次へつなぐ体制ができることになる。

 

 権力や地位は必要である。しかしながら独占されて腐敗しないような手法をしっかりと作っておくことが必要である。平時においては江戸期の藩主と2人の家老のように会長3人にしておくことも必要だ。

 

 平時ではなくて緊急時や戦時においてどうするかは別問題である。基本的に緊急時にはスピードが要求される。スピードが要求されるときに誰が決断をするかを決めておくことが必要となる。

 前職において、私は27年間のナンバー2をしていたが、緊急時には、実権を握っていた。子どもの命を守るためには、必要なことであった。その代わりに事態が悪くなれば、退職を含めて責任を取ることが必要であった。

 平時と緊急時の体制を考えること。そして常に緊急時に対応できるナンバー2を養成しておくことが必要である。ナンバー2を養成しないのは、自分の権力をいつまでも維持しようとする場合である。

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能力以上の地位

2011/09/11 06:22

 

 

 民主党の大臣がまた、軽率すぎる発言をして辞任となった。

 

 能力以上の地位を与えられて、その気になり、自分は偉いと勘違いする人が多い。人間は思わぬことから、現在自分が持っている以上の地位を与えられてしまうことがある。本当はその地位に与えしない能力と自覚して、その分、学ぶ努力をしなければならないのに、『自分の今までが地位が低かった。俺は本当はもっと偉かったのだ』と錯覚してしまうのではないだろうか。

 仮に能力相当の地位になったとしても、世の中から学ぶことが多すぎる。ますます頭を垂れて、学習の必要があるのではないかと私は思う。

 

 日本人の良さはどんなに偉くなっても、掃除・清掃・ゴミ処理・草木の世話・料理がやれることである。これは日本の支配階級となった武士の先祖が文化人類学的にみると『マタギ』を先祖にしていたことによることにあると私は考えている。つまり、マタギは山に入って自給自足の生活で狩りを続ける。ですから、財産はおかみさん(=お神さん?女将さん?お上さん)に管理してもらって、身体一つで狩りや戦いに行く必要性があった。

 武士やマタギの文化を守り、公家にはならないことである。自分自身を公家になったと勘違いして、偉くなってしまえば、平家や豊臣秀吉さんのようになってしまうのではないか。

 

 「」付き公家文化みたいなものとなり、自分が偉いと思ったら、驕りなどが出て来て、自分を見失ってしまうのではないだろうか?民主党政権の閣僚の相次ぐ辞任にそんな風に思った。

 

 4月11日に私も東松島市野蒜に炊き出しボランティアに出かけてきた。このときも一緒に行った人が上目線になってしまって、『いやきれいさっぱり何もなかった』等の発言を何度も繰り返し、他の人からあきれられた。自分は他の人と違ってこんなに偉いことをしているとの驕りがそこにはあった。別に被災地に炊き出しに行くことはそんなに偉いことではない。仲間が大変なときに助けるのが当然であるだけだ。彼は自分は何も準備等の努力をしないで、運転も何もしないで、ただ実は遊びがてら見学に行ってしまったのだ。(それを私が見抜けなかったのも問題ですが)このためにトンチンカンな報告をしてしまう。自治会費も3万円くらいしか使わなかったのに、10万円も使ったと豪語することになった。

 

 能力以上の地位に着いた時に、自分の能力の無さを隠すために、ついつい偉ぶる危険性は私も含めて全ての人が持っている一つの傾向である。このことへの基本的な恐れを抱いていないと、人間は常についつい本音の危険な発言をしてしまうのではないかと私には感じる。

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野田さんに期待する

2011/09/04 10:45

 

 どじょう内閣とはよい表現だと思います。金魚のようにひらひらするのではなく、栄養価も高い。ちょっと期待したい感じです。どじょうはあえて地中から出ることはない。いつもは引っ込んでいる。でも必要なときには必要なことをする。そんな内閣であって欲しいと思います。

 

 小学生時代にどじょうとりをよくやっていました。どじょうをたくさん捕まえて、ニワトリを飼っている農家に持っていくと、卵がもらうことが出来ました。どじょうは貴重な収穫物でした。

 今は卵も安くなり、日常的に食べられるようになりました。でも昔はとても貴重品でした。病気になると食べられるのがバナナと卵でした。

 豊かな時代とそうではなかった時代のどちらが精神的に豊かであるかは難しいですね。どじょうの話から思い出しました。

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死に体の民主党政権?

2011/08/29 07:31

 

 私の感じでは民主党政権は死に体である。死に体の政権が解散権を握っているので、解散のない限り、後数年はこの政権となる。しかしながら、参議院では多数で民主党はないから、妥協しない限り、政局は混迷を深めるだけであろう。

 

 小沢一郎さんはいったい何を考えているのであろうか。私の感じでは自分自身の延命しか考えていないのではないかと考えざるを得ない状況である。

 

 とりあえず、前原さんになって欲しいと思うこの頃です。

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思考と言語

2011/08/13 11:26

 

  

 時々、良いアイディアが浮かぶことがある。すぐにパソコンでブログ等に書き込んでおこうと思う。でも忙しさにかまけて、書き込みを忘れてしまう。すると思考自体が消えてしまう。言語化をしておかないと思考を留め置くことはできないようです。

 同じようなことが夢にもあります。夢を朝方に見ます。その夢を記録しようと思うのですが、ちょうどマーブリングのようなもので、ちょっとした音などで消えてしまうことがあります。ですから、そっとそっとしておいて、夢を速やかに記録する=言語化することが必要となります。

 

 思考や夢は言語化しないと長期保存は無理のようです。

 

 実はこの間自分なりに素晴らしい考えを思いついて、記録しようとしたのですが、その時は忙しくて記録できませんでした。それ以来、思い出したくても思い出せないでいます。こうやって、パソコンを打っていれば、思い出すかもしれないと打っているところです。

 

 といい線にいきそうだったのですが、ピンポンが鳴って、お客様が来ました。思考停止となりました。

 

 思考停止から1日が経ちました。キーボードにタッチしていたら、思い出してくるでしょうか。ひらめきは働きのことだったかもしれません。日本人のことかもしれません。子どものことだったでしょうか。平島公園のこと・自治会運営のこと・政治のこと・自然を大切にすること・植物の力について・地球のこと・映画の話などなど考えながらいるのですが、やはり思い出すことが出来ません。あんまりたいしたことではなかったのかもしれませんね。

 

 思い出して、長文となりました。

働きの思想

児童健全育成指導士 田中 純一

働きの思想

 

世界も日本も変動のときであると私は感じています。欧米かぶれの日本人が西欧崇拝主義的に日本の教育をダメにしていると感じています。

 

 ジェンダーフリー・こどもの権利条約崇拝主義・受容共感論者はたまた経済においてはヘッジファンドなどなど、成金主義的な発想が多すぎるように思います。

 

 職場を定年退職して、自治会活動や平島公園での活動そして児童館や児童クラブ・小学校の教員の研修会などをやっていて、自分の職場以外の場所でも前記の観念論者に振り回されて機能不全に陥ることが多い現状を感じています。

 

 私は学生時代に学生運動等のいろいろな経験をして、いろいろな考えを学びました。共産党のことも中国のこともいろいろ学びました。今は英語などをやっていて、アメリカなどの考えを学んでいます。

 

 そのプロセスで解ったことは、世界の中で日本はけっこう素晴らしい思想と考えと発想を持っていることです。とくに『働く』は人のために動くと書きますが、それが国字(日本人が作った漢字で中国にはない)であることです。この『働く』との思想が根本にあることが日本を日本にしているのではないかと思います。

 

 英語で働くとはジョブするとかワークするです。つまり仕事があるとかお金を稼ぐとの意味です。中国語では役務するとか工作するとかです。中国語でも英語でも人のために動くとの意味は基本的にはありません。ですから地震などになると、お金持ちから適当にこの際だから頂いていくという略奪の思想が残っているのです。日本人の働きは他人のために動くですから、働いた成果物は基本的にみんなのためのものとの発想があります。ですから、人のために動いた結果のものを奪い取ろうとの発想が出てこないのではないかと私は思います。

 

 昔から日本人は職人気質がありました。奈良時代であろうが平安時代であろうが、建造物は大工の誇りの仕事であったようです。そして、柱の見えないところにこっそりと名前とか何時作ったかなどが書かれていました。また、現代でも庭師はオーナーである庭の持ち主に『この木はこう切るのが良い』などとオーナーの意思に反する提言をします。これをオーナーは受け入れる能力があるのが日本のすごいところであると私は思っています。

 『働く』ことに他人のために一生懸命動き、自分のやり遂げた仕事に誇りを持つ文化は素晴らしい文化であると思います。

 

 日本も歴史的に観ると、1万年位前の氷河期にマンモスを追って、シベリア方面からの移住があり、次に5000年位前にインドネシア方面から黒潮にのって移住してきたものがいます。ついで中国の春秋戦国時代に中国南部からの移住があり、朝鮮半島からの移住があったようです。これらのことは骨格調査とDNAの解析によって明らかになってきたものです。そしてこれらの民が混血していって、協働して生活していったことが遺伝子的に解明されてきているのだそうです。

http://www1.tlp.ne.jp/tomoyan/tosyo/tosyo.html

 この見地から考えられることは、日本人は他民族を排斥するのではなくて、他民族と混血してのびてきているのです。基本は隣保相愛相互扶助の考えです。ですから、働くとは自分のためだけではなくて、基本的に人のために動き、結果的に多少自分も裕福になるとの考えです。

 

 稼ぐに追いつく貧乏なしとのこの考えに一致していると私は思っています。一攫千金を夢見ることは基本的に他人の労働を略奪することに他なりません。自分はたいした働きもしないで、一挙にお金持ちになることは、誰かの働きを盗るしかないでしょう。

 特許などを取得して、お金をたくさん稼ぐことがあります。でも実用新案とか特許をとるためには、いろいろな実権や工夫や失敗を積み重ねることが必要となります。これらの積みかさねの結果としてお金持ちになることもあるでしょう。でも働くが人のために動くことであるならば、特許を取得しても、みんなのために安くそのノウハウを提供するのが日本人なのかもしれません。その反対に他人のちょっとした工夫を盗み、特許をとれば、特許をとった人の勝ちになるのも事実です。

 

  いろいろな観点から日本を見てみると、その根本にやはり『働く』の概念が強いことが日本の基本にあるように思います。共産党や民主党などの政党は、この日本人の『働く』との考えを忘れて、欧米風な考えかたを基本に持っていることが問題だと私は考えています。もちろん、組合運動もそうですが。

 また、教育や保育においても、同様に働くことを基本に据えていないことが問題であると私は感じています。働くをワーク・ジョブ・労務・使役・工作みたいに捉えると、子どもを働かせてはいけないとの思想になります。ところが働くを「人のために動く」と捉えなおせば、子どもにとっても働くことは重要な意味を持つことになります。

 また全ての活動は実は『働き』『学び』『遊び』が包括されています。学校の学習の場面でもまずは学習の準備のために黒板をきれいにするとか、ゴミを拾うとかは働きの要素です。ついで学習場面では学びが入り、その中で工夫をしていろいろ考える場面では遊びの要素も入ります。最後に後片付けをするのはまた働きの要素です。

 働きの要素が充分に果たされないと問題が起こると私は考えています。

 

  

 働きの思想の具体例

 働きの思想の具体的な例を考えてみよう。

私の自宅前は平島公園にあります。平島公園がきれいになり、草花がたくさんになってくると、風が吹いても、砂などが飛んでこなくなりました。そこで私の自宅のブロック塀に穴を開けて風通しをよくすることにしました。本来ブロック塀は風通し用の穴が適時あいているブロックがところどころに使われているのですが、我が家のブロックはブロックの上から塗装されていて、高さ1.8メートルのブロック塀には一つも風通しが出来なくなっていたので、ブロック塀と家の間は湿気が多くなっていたのです。そこで穴を6ヶあけることにしました。

垂直のブロック塀に穴を開けるには平らでないところを真空状態にする特殊な機械がいるので、1ケ4千円くらいかかるので、2万4千円とのことでした。職人がやってきて、状況を確認しました。そこで『せっかくだから、もう少し穴をあけることができますか?』と私が聞きました。職人の方は『このブロック塀なら12ケくらいあけても大丈夫だし、その方がバランス的にかっこ良いかもしれない』『費用はどうしましょうか?』『じゃあ3万円くらいでやってあげますよ』とのことになった。この場合に私の考えを職人の方が自分の経験からして、このような形にするのがベターと考えてくれているのである。6ヶの穴が12ヶになるのだから、時間的には大変だ。でも、職人気質としては、せっかくだから良い仕事をしたいとのことであった。

同じ頃、私の元職場では、御行幸啓の準備で忙しかった。玄関前が水漏れがあるので、修繕の必要があった。しかしも元受けと孫受けの職人が違うので、職人との話が通じても元受けにまでなかなか通じないで私も苦労をしていた。そんな話をしたら、

「そんなものですね。『私達もどこそこに穴をあけよ』と言われてそこではまずいのでは。こちらが良いと思いますがなどと言っても『言われたとおりにしろ』と言われる。それで仕方なく意味がないのにと思いながらあけると後に『やり直し。ここにあけろ』と言われる。だから最初からそう言ったでしょ。と言いたくなるが、我慢をしている」と話をしていた。日本人は言われた通りに仕事をするのではなくて、オーナーの言われた真意を理解して、自分の経験智から、オーナーの真意に合致するよりベターな仕事を提案するのが本来的な働きだという思想があるのである。こうした思想を上手く取り上げていくことが大切であると私は思うのである。

 

働きと自然の関わり

日本人にとって働くとは人のために動くとのことである。このことは働きかける対象である自然に対しても、当然のこととして、欧米とは違った関わり方をすることになるであろう。欧米の思想は自然を征服し、自然を改修して、自然を作り変えて人間にとって有意義なものにするとの考え方だろう。日本人はそうではなくて、自然との共生の考えであり、自然から学び、自然から教えを請う考え方である。ですから、全ての自然の中に神を観ることになる。巨岩や巨木そして山そのものが信仰の対象となる。川も動物も神様が宿る。お稲荷様などは最高位の正一位である。もちろん狐はお稲荷様の使いでしかないのであるが、江戸時代には狐とお稲荷様を同一視することもあったという。狐も神様になれるのが日本の考えである。

 大震災などでも、ある意味で冷静に受け止めることができるのは、大震災を起こした自然そのものを恨むような思想を日本人は持っていないからではないだろうか。自然の脅威に対して恨みを持つよりもいかにそのような自然と共存するかを考えるのがポジティブな思考ではないだろうか。そして自然との共有がしがたいものについては利用しないようにすることが大切であろう。

 

働きとアイデンティティ

問題行動を起こす子どもとの関わりにおいて、上手く働きの要素を取り入れると、子どもの自尊心を高め、アイデンティティを作るきっかけになることが多い。あるがままの子どもを受容したり、共感したり、遊戯療法を取り入れてみたりしても、上手くいかないことがたくさんある。子ども自身が『どうせ僕なんて、みんなに嫌われている。世の中に嫌われている』などと思っていることが多いからだ。そこでみんなで環境をきれいにするために草取りをしようとか石拾いをしようとか、ゴミを集めようなどとの働きを取り入れた活動をする。当然のこととして公園や学校や児童館児童クラブの施設はきれいになる。きれいになれば気持ちがよい。気持ちのよい状態で『君が頑張って働いてくれたから、きれいになった。ありがとう』と褒めてやる。これはおせいじでも甘やかしではなくて、事実である。褒められれば自尊心が高まる。自分は有意義な存在であると気づく。自分のアイデンティティが獲得されるようになる。

このときに、子どもだけを働かせるのは間違いである。やはり指導員が先頭に立って、働くことが必要である。このときに指導員は楽しく働くことが必要である。指導員や大人が嫌々やっていれば、その行動は子ども達に完全に見透かされてしまうであろう。指導員が楽しく働くためには、元に戻るけれどそもそも働きとは何かをきちんと捉えておくことが一番大切であると私は思うのである。

 

働きとマスコミ

 司馬遼太郎さんによれば、日本は第2次世界大戦の一時期に少しおかしくなって、自分達の国を過大評価して、戦争への道を突き進んだという。その背景には日清日露戦争とくに日露戦争は勝利したのではなくて、かろうじて負けなかっただけなのに、マスコミを始め、勝利のみを宣伝したことも大きな要因があると司馬さんは言っている。私もその通りであると思う。日本のマスコミは大衆迎合主義=ポピュリズムの傾向が色濃いのではないだろうか。日本の良さをきちんと主張するのではなくて、日本は悪い国みたいな主張もその一つである。逆に高度成長時代には『消費は美徳』みたいなことを言い続けていた。日本の良いところも在れば、悪いところもある。逆に他国の良い点もあれば、悪い点もある。極端に右から左に流れていくのは危険な兆候ではないだろうか。

 共働きに対する考えなども一緒である。20年程前には基本的に母親は家で子育てをするべきみたいな主張をしていたのに、最近は民主党みたいに共働きが基本形態みたいな考えに変容してきている。私流の考え方から言えば、共働きも主婦も主夫もいろいろであって良いのではないかと思うのである。多種多様の家族の有り様があってよいのではないかと思うのである。

 働きに関する考えも一緒である。日本人の本来的な『人のために動く』的な考えを否定して、『同一労働統一賃金』とか「」主婦の賃金はいくらになるか』とか『主夫業が良いとか』『実力主義が良い』とか極端にぶれている。結果的に基本的な日本人の働きの要素を否定していることに気づいていないのではないかと思うのである。マスコミが大衆に迎合して、良い話ばかりをしていると、日本人は日本人の良さを忘れて、安易な海外覇権に出たり、あるいは他国崇拝をしてみたりする。良い面悪い面を含めて、自分の国を冷静に見る態度が必要であると思う。

 最近のマスコミの出演者を見ると性同一性障害の方々やいわゆる外国人みたいな人の割合が異常に高いように思う。極端な偏りは危険な兆候であると私には感じられる。

 

 

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不法投棄を許すな。

2011/07/28 08:16

 

 平島公園の前に町内のゴミステーションがある。いろいろな手法で(=不法投棄禁止のポスターを貼る・夜に人が来ると光るライトを置く・監視カメラを置く・不法投棄ゴミを速やかに片付けるなどなど)不法投棄をしないように呼びかけているが、なかなか上手くいかない。

 どうも不法投棄者はごね得になっている。有料ゴミ袋を使わない・カンもビンも燃えるごみも一緒に捨てる。このような行為をしても、本人はなんら、痛くないのである。
『このゴミは引き取れません』などと赤いシールを貼られても、それを処分するのは自治会の役員等であって、不法投棄者ではないのです。

 私が提案したいのは、ゴミの不法投棄禁止を言うならば、それに伴って、強い制裁措置をとるとか、本人を特定して取り締まることが必要だということです。それなしで、ゴミの不法投棄を言っても、ごね得・捨て得なっているのです。そして捨て得は捨てて毒になってしまうのです。

 汚い環境は毒です。捨て毒を取り締まることが大切と思います。

 写真と本文は関係ありません。きれいにするとみんなの心がきれいになるなあと思うので、入れてみました。

  捨て得・ごね得は捨て毒・ごね毒ともなる。得ではなくて毒になるのだ。毒というのは他人に危害を加えるものだ。ゴミ屋敷も人々に悪臭を与えている。ゴミの不法投棄も同様に悪臭だけではない。処分費などを考えても、他人に迷惑をかけている。ですから毒なのです。

 徳のある人は不法投棄などの一見、得みたいに見えて、実は毒である行為をしない。この場合の徳とは学力や地位などではない。地位の高い人・お金のある人で、不法投棄をしている人はいる。地位もお金もないけれど、しっかりとした徳を持っている人もいる。

 ようするに天に恥じる行為をしないことが大切なのではないかと思う。ゴミの不法投棄は天に唾する行為でもあると思う。こうした行為を不法投棄をしている人たちを救う意味からもきちんと取り締まることが肝要であると私は思う。

 取り締まるというと、すぐにちょっとゴミを落としただけで取り締まるといった違法行為になることもある。そこらへんは臨機応変にすべきである。条例を作ると、取り締まらなければならない人を逃がし、取り締まらなくても良い人を取り締まってしまうこともあるのです。そこらへんが法律の難しいところです。

 

 

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菅さんこそが復興を遅らせている

2011/07/07 08:03

 

 時代の評価は後からわかるというけれど、今回に限ってみるとそうではないようだ。菅さんはもう死に体である。権力に対する未練のみが地位を離そうとしない理由である。即刻、辞任すべきであろう。

 

 まず、理念がない。何をしたいから、総理の座にいたいのか。復興のめどをというけれど、復興のめどは管総理の存在が遅らせている。

 

 松本元復興大臣と同じ、上目線で、解散権を振り回しているだけだ。

 

 国会議員のみなさん。これ以上、自分勝手な国家運営をさせないために、何をなすべきかを早急に考えるべきであろう。

 

 民主党がまず管総理の不信任案を提出するくらいの気持ちが欲しいものだ。

 

 ユングは権力は腐敗する。暴力は麻痺すると言っている。今まさに国家権力は腐敗を始めているのである。腐敗を追及したものが、腐敗していくプロセスを見ているのかもしれない。

 

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政局をどうみるか?

2011/06/02 10:40

 

 

 政局をどう見るか?管さんに対する不信任案を私は可決するとみている。自分の予想を書いておきたいからだ。

 

 菅さんの言動や顔を見ていると、彼は平時の人であっても、危機管理時や戦時の人ではないと思う。危機管理時には毅然と責任を持ってやることが必要である。その能力がないと見る。

 

 その代わりが誰かとのこともあるが、少なくとも菅さんではダメである。

 

 解散はなしで、自民党民主党の一部が組んで、取り合えず、。震災復興のプランを作り、その後総選挙となる。

 

 総選挙において、国民に阿る政治をもうやめるべきだと私は思っています。個人的な豊かさを追い求めるのではなくて、地域の自然や仲間を大切にする地域の豊かさを求めるように。物質的な豊かさよりも心の豊かさ(=きれいな環境=地域の仲間作り)を大切にする。そんな方向に日本は歩むことが大切と思います。

 

 私は平島公園を緑化して、除草剤を撒かないようになり、子ども達が大人と乳幼児と一緒に楽しく遊ぶそんな環境を作っています。働いてはいますが、お金にはなりません。でも働くとはお金だけではないのです。

 

 緑と自然を大切にして、汚い、きつい仕事の中に本当の働く喜びを見つけることができる日本人を増やしたいと思うこの頃です。

 

 そんな展望の中で、菅さんは不信任です。そして不信任案は可決されると私は思います。

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分析=Analysis=専門??

2011/05/22 08:51

 

 

 分析=Analysis=専門??

 

 放送大学院を視聴していた。その中で分析とは二つに分ける・細かく斧で切るとなるが、英語ではanaiysisとなる。それで専門家のことをアナリストというのだという。

 

 日本では専門家というと専門バカみたいな言われ方をして、細かい専門的なことは知っているけれど、全体を理解できないように話になることが多い。事実、その道の専門家でありながら、全体像が読めない「専門家」が多いものだ。

 

 ところが英語ではAnalysisとは切るとか細かくするとの意味ではないというのだ。実は絡まったものを緩めて解くような意味だと言うのです。絡まったものを緩めるとは当然のこととして、絡まった総体を見通すことが必要である。どのように絡み合っているかが、解らないで、切ったり、細かくしてしまえば、まったくの別物となるからです。

 

 分析の方法でも、塩素があるかどうかを、試薬を入れて調べて見る事は、同時に色が変わったとたんに、塩素は塩素ではなくなって、塩化水銀か何かになって白濁するのでしょう。一部を取り出して調べる場合は良いでしょうが、全体を調べる場合にはこの手法では上手くいかないというのです。

 

 私達のように子どもの相手をする場合に、多動であれば、リタリンを飲ませば、落ち着くというような安易な専門家=「アナリスト」の存在は危険なことが多いように思います。

 

 Analysisとは切ったり、細かくしたりするのではなくて、全体を眺めたなかで、絡まったりしてしまっているものを、緩めて解いていく作業であることを自覚することが必要です。絡まったものを解くためには、押したり、引いたり、ちょっと水分を加えたり、時間を置いてみたり、いろいろなことが必要です。加減が必要となるでしょう。この加減を上手く使わないで、引けばよい、押せば良いというものではありません。押しても引いてもだめなら、上下左右にスライドさせることもあるでしょう。

 いろいろな手法を身につけていくことが必要です。いろいろな手法を、真剣に学ぶ人こそが本来の専門家ではないかと私は思います。

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